坂本龍馬
坂本龍馬 通称: 直柔、龍馬、才谷梅太郎 生年: 1836年1月3日 生地: 土佐藩(高知) 没年: 1867年12月10日(31歳没) 没地: 京都 活動: 尊皇攘夷、公議政体 藩: 土佐藩(高知県) 所属: 海援隊 受賞: 贈正四位 廟: 京都霊山護国神社(霊山墓地)
靖国神社〈新暦・1867年12月10日〉)は、江戸時代末期の志士、土佐藩郷士。
諱は直陰(なおかげ)、のちに直柔(なおなり)。通称は龍馬(竜馬)[注 1]。 他に才谷 梅太郎(さいたに うめたろう、さいだに うめたろう)などの変名がある (手紙と変名の項を参照)。
土佐藩郷士の家に生まれ、脱藩したあとは志士として活動し、貿易会社と政治組織を兼ねた亀山社中(のちの海援隊)を結成した。薩長同盟の成立に協力するなど、倒幕および明治維新に関与した。大政奉還成立の1か月後に近江屋事件で中岡慎太郎、山田藤吉らとともに暗殺された。暗殺者は諸説あるが、京都見廻組という説が有力である。1891年(明治24年)4月8日、正四位を追贈される。
生涯
幼少年期
龍馬は天保6年11月15日(1836年1月3日) 、土佐国土佐郡上街本町一丁目(現・高知県高知市上町一丁目)の土佐藩郷士(下級武士・足軽)坂本家に父・八平、母・幸の間の二男として生まれた。兄(権平)と3人の姉(千鶴、栄、乙女)がいた。坂本家は質屋、酒造業、呉服商を営む豪商才谷屋の分家で、第六代・直益のときに長男・直海が藩から郷士御用人に召し出されて坂本家を興した。 土佐藩の武士階級には上士と下士があり、商家出身の坂本家は下士(郷士)だったが(坂本家は福岡家に仕えていたという)、分家の際に才谷屋から多額の財産を分与されており、非常に裕福な家庭だった。
龍馬が生まれる前の晩に、母親が龍が天を飛ぶ瑞夢を見て(または父が駿馬の母が蛟龍の夢を見たとも)、それにちなんで龍馬と名づけられ、幼い龍馬の背には一塊の怪毛があったという伝説がある。
[注 1]^ 「りゅうま」「りょうま」「りゅうめ」などと読み得るが、岩崎弥太郎など同時代人の日記や書簡に「良馬」と記されているし、龍馬自身も書簡の中で「りよふ」と自署しているので「りょうま」と読まれていたと考えられている。なお、「竜」は「龍」の常用漢字表に採用された字体で、江戸時代以来一般には「龍」の略字として認識されていたが、本は古字である。学校教育では、「坂本龍馬」という表記と、「坂本竜馬」という表記の両方が使われているが、どちらでもよい。
家系・家族
龍馬自身は紀姓で紀貫之の子孫と称したという。墓石にも「坂本龍馬 紀直柔」と名が彫られている。 坂本家が主君に差し出した『先祖書指出控』には、「先祖、坂本太郎五郎、生国山城国、郡村未だ詳らかならず、仕声弓戦之難を避け、長岡郡才谷村に来住す。但し年歴、妻之里、且つ病死之年月等未詳」とある。 天正16年(1588年)の才谷村の検地で村の三番目の百姓として登録されているにすぎず、三代目太郎左衛門までは公認の名字を持たない百姓身分と考えられる。二代目彦三郎、三代目太郎左衛門まで才谷村で農業を営んだ。四代目守之、五代目正禎の頃に豪農としての頭角を現し才谷村の字の一つである「大浜」を家名として名乗り始める。
寛文6年(1666年)、三代目太郎左衛門の次男・八兵衛は高知城下にて質屋を開業し(屋号は才谷屋)、酒屋、呉服などを扱う豪商となる。享保15年(1730年)ごろ本町筋の年寄役となり、藩主に拝謁を許されるにいたった。明和7年(1770年)、六代目直益は郷士の株を買い長男・直海を郷士坂本家の初代とし分家させ、名字帯刀、すなわち公認の名字を名乗り身分表象として二本差す身分にたどりついた。次男・直清には商家才谷屋をつがせている。郷士坂本家三代目・直足は白札郷士山本信固(覚右衛門)の次男として生まれ坂本家へ養子として入った。直足の次男が直柔(坂本龍馬)である。妻はお龍(楢崎龍)、また、千葉さな子は婚約者だったと言われる。龍馬には子がいなかったため、甥(姉・千鶴の長男)の直が家督を継いだ。
郷士坂本家は五代目当主の直寛(姉・千鶴の次男で龍馬の甥)のときの明治30年(1897年)に一族を挙げて北海道に移住した(土佐訣別)ため、現在は高知には龍馬はもとより郷士坂本家の人々はいない。直寛は、武市半平太の後に武市家を継承した武市安哉らとともに、キリスト教精神に基づく自由民権運動を行っており、この考えによる理想のまちづくりを夢見て、新天地である北海道に移住した。北海道開拓は生前の龍馬の夢でもあった。
小説では、坂本家は明智光秀の娘婿・明智秀満の末裔 とし、坂本姓の由来は、本能寺の変以前、明智氏所領であった坂本(現・滋賀県大津市坂本)に由来するとの話もあるが、坂本の地名は全国に多数ある。このようなことからも、後世の創作だろうとする声も強い。
坂本家の家紋は「組み合わせ桝に桔梗」。
2010年1月15日横須賀市の信楽寺にて、龍馬死後143年ぶりにお龍との合同慰霊祭が催された。
龍馬が愛用した拳銃は2丁あると言われている。ひとつは高杉晋作から贈呈された S&W モデル 2 アーミー32口径6連発で、寺田屋事件の際に火を噴いたのはこの銃であると言われている。後日、兄・坂本権平宛ての手紙の中で「右銃ハ元より六丸込ミな礼(れ)ども、其時ハ五丸のミ込てあれば」と6連発銃であることを示唆している。しかし同事件の際に紛失し、のちに買い求めたのが S&W モデル 1 1/232口径5連発で、これは妻・お龍とともに1丁ずつ所持し、姉・乙女宛てに「長サ六寸計(ばかり)五発込懐剣より八ちいさけれども、人おうつに五十間位へだたりて八打殺すことでき申候」と書き送っている。薩摩滞在時はこれで狩猟などを楽しんだという。当然この銃は暗殺されたときも携帯していたが、発砲することなく殺害されている。
異説
2000年代に入ると坂本龍馬とグラバーとの関係を強調して、論者がグラバーがメンバーであったと主張するフリーメイソンと龍馬とを結びつける陰謀論が現れ、テレビ番組でも取り上げられている。 主な論者は作家の加治将一。
異説の内容は以下のようなものである。
龍馬は脱藩後に継続的に接触したグラバーの影響を強く受けており、薩長同盟、亀山社中創設、船中八策は龍馬の完全な独創ではないという指摘がある。グラバー商会は、アヘン戦争を推進したイギリスのジャーディン・マセソン商会の直系であり、グラバーの肩書きは、「マセソン商会長崎代理人」であった。龍馬が幅広く権力者と交流できた理由は、彼個人の資質よりも、彼が当時の東洋最大手のイギリス武器商会の「営業マン」だったからだというのが真実に近い、という主張がある。
楢崎 龍(ならさき りょう、天保12年6月6日(1841年7月23日) - 明治39年(1906年)1月15日)は、江戸時代末期(幕末)から明治時代の女性。名は一般にお龍(おりょう)と呼ばれることが多い。
トーマス・ブレーク・グラバー(英: Thomas Blake Glover、1838年6月6日 - 1911年12月16日)はスコットランド出身の商人。武器商人として幕末の日本で活躍した。日本で商業鉄道が開始されるよりも前に蒸気機関車の試走を行い、長崎に西洋式ドックを建設し造船の街としての礎を築くなど日本の近代化に大きな役割を果たした。維新後も日本に留まり、高島炭鉱の経営を行った。造船・採炭・製茶貿易業を通して、日本の近代化に貢献。国産ビールの育ての親。
11+1=12 15+1=16
西山 志澄(にしやま ゆきずみ、天保13年6月6日(1842年7月13日) - 明治44年(1911年)5月27日)は、幕末土佐藩の迅衝隊士、日本の明治初期の軍人、政治家。幼名直次郎。旧姓・平井、植木。
中井 庄五郎(なかい しょうごろう、弘化4年4月23日(1847年6月6日) - 慶応3年12月7日(1868年1月1日))は野尻の十津川郷士で中井秀助の三男。仲井とも書く。名は義高。尊皇攘夷派であった。
坂本 直(さかもと なお、天保13年11月1日(1842年12月2日) - 明治31年(1898年)11月7日)は、武士・海援隊隊士。坂本龍馬の甥であり、龍馬暗殺後は家督を継いだ。幕末は高松太郎と名乗る。妻は瀬田友吉の娘である留(1847-1915)。子に坂本直樹(夭折)・坂本直衛、養子に兼次郎・潔、弟に坂本直寛がいる。坂本龍馬家の当主の一人で、龍馬から数えて2代目に当たる。
榊原 鍵吉(さかきばら けんきち、文政13年11月5日(1830年12月19日) - 明治27年(1894年)9月11日)は、江戸幕府幕臣、剣術家。諱は友善(ともよし)。
幕末期に男谷信友から直心影流男谷派剣術を継承し、講武所剣術師範役、遊撃隊頭取を務める。明治維新後は撃剣興行を主宰して困窮した士族を救済したことや、天覧兜割りの成功などで知られ、「最後の剣客」と呼ばれる。稽古で長さ六尺(180cm)、重さ三貫(11kg)の振り棒を2000回も振ったといわれ、腕周りは55cmあったという。弟子に山田次郎吉がいる。
坂本 直寛(さかもと なおひろ、嘉永6年10月5日(1853年11月5日) - 明治44年(1911年)9月6日)は、明治時代の自由民権運動家、キリスト教牧師。土佐藩郷士坂本家5代当主であり、坂本龍馬は叔父に当たる。兄・坂本直は龍馬の養嗣子になった。
坂本 直足(さかもと なおたり、寛政9年(1797年) – 安政2年12月4日(1856年1月11日))は、江戸時代末期の土佐藩郷士。坂本家第3代当主。通称は常八郎、のち長兵衛。隠居後に八平(はちへい)と称したため、坂本八平の呼称でも知られる。坂本龍馬の父である。
龍馬 辰午 57 五七の麒麟(桐)
KO こ コ 十 110 ヒコ(日子)
1115 1115 アサオ AKE(明け 開け)
タツノオトシゴ(竜の落とし子)は、トゲウオ目ヨウジウオ科タツノオトシゴ属 Hippocampus に分類される魚の総称。狭義にはその中の一種 Hippocampus coronatus の標準和名としても用いられる。およそ魚には見えない外見と、オスが育児嚢で卵を保護する繁殖形態が知られた分類群である。
日本の別名はウミウマ(海馬)、カイバ(海馬)、ウマノコ(馬の子、日本各地)、ウマノカオ(馬の顔、富山)、リュウノコマ(竜の駒、神奈川県三崎)、ウマヒキ(馬引き)、リュウグウノコマ(竜宮の馬、和歌山)、ウマウオ(馬魚)、タツノコ(竜の子、高知)などがある。英名でも"Seahorse"(シーホース : 海の馬)と呼ばれる。
ヒッポカムポス(古希: ἱππόκαμπος, hippokampos, ラテン語: hippocampus)
ギリシア神話に登場する半馬半魚の海馬である。ヒッポカンポスとも表記される。 英語で hippocamp(ヒッポキャンプ) または hippocampus(ヒッポキャンパス)。 sea-horse (シーホース、「海の馬」)と通称されることもある。
ヒッポカンポスの前半分は馬の姿であるが、たてがみが数本に割れて鰭状になり、また前脚に水掻きがついている。胴体の後半分が魚の尾になっている。ノルウェーとイギリスの間の海に棲んでいて、ギリシア神話に登場する。ポセイドーンの乗る戦車を牽くことでも有名。その姿はワイト島とニューカッスル・アポン・タインの紋章の両側に見られる。
竜馬・龍馬(りゅうめ、りゅうま)は、将棋の駒の一つ。本将棋・小将棋・中将棋・大将棋・天竺大将棋・大大将棋・摩訶大大将棋・泰将棋・大局将棋に存在する。
「龍」と「竜」とは異字体の関係にあり、「龍馬」とも「竜馬」とも表記される。実在の将棋の駒には通常「龍馬」と表記されている。一方、日本将棋連盟では活字にする場合には常用漢字である「竜」の字体(新字体であると同時に古字でもある)を採用して「竜馬」と表記するのを正式としている。
なお、本将棋の駒(角行の裏面)では、「龍」の字の旁の最後の画の「はね」がなく下向きにおろされた崩し字が使われることが多く、これは「下り龍」を意味している(対して竜王でははねを上向きに強調した「昇り龍」が使われる)。ただし、「龍馬」の文字が崩されていない書体(水無瀬兼成など)や、崩し字であっても竜王と同じ「昇り龍」になっている書体(三邨など)も一部の書体に存在する。