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キ (中国神話)

(き)は、中国神話における神、動物、人物、または妖怪のこと。夔牛きぎゅうともいう。古い伝承によれば一本足であり、音楽と深い関係にあるとされた。夔についての伝承は時代や地域によって大きく異なっている。

中国の夔

起源

元は代に信仰された神で、夔龍とも呼ばれる龍神の一種であった。一本足の龍の姿で表され、その姿はと共に銅鏡等に刻まれた。鳳が熱帯モンスーンを神格化した降雨の神であった様に、夔龍もまた降雨に関わる自然神だったと考えられており、後述の『山海経』にて風雨を招くとされるのもその名残と思われる。後に一本足のの姿で表されたのも牛が請雨のために龍神に捧げられた犠牲獣であったためとされている。一本足は天から地上へ落ちる一本のを表すともいわれる。

神話のなかの夔

山海経より「夔」

山海経』第十四「大荒東経」によれば、夔は東海の流波山頂上にいる動物である。その姿は牛のようだが角はなく、脚は一つしかない。体色は蒼である。水に出入りすると必ず風雨をともない、光は日月のように強く、声は雷のようである。黄帝は夔を捕らえてその皮から太鼓をつくった。この太鼓を雷獣の骨で叩くと、その音は五百里にまで響き渡ったという。『繹史』巻五に引用されている『黄帝内伝』によれば、この太鼓は黄帝が蚩尤と戦ったときに使われたものだという。また『山海経広注』に引用されている『広成子伝』によると蚩尤が暴れるのをとめたのは夔ではなく同音の軌牛であったという。

夔は『説文解字』第五篇下における解説では「竜のような姿をしていて角がある」とされている。また『法苑珠林』に引用されている『白沢図』によれば「鼓のようで、一本足である」という。

妖怪の夔

国語』「魯語」に三国時代韋昭が付した注によると、夔は一本足であり、人はこれを山繰と呼び、人の顔、猿の体で人語を解する動物であるという。『史記』「孔子世家」では夔は木石の怪であるとされ、魍魎と同一視されている。同様の記述が『抱朴子』「登渉篇」にもある。

人間としての夔

書経』「舜典」では、夔は帝の配下である人間で、帝によって音楽を司るように命じられた。夔は「私がを高く低く打てば百獣がそれに従って舞うことでしょう」と言ったという。

韓非子』「外儲説左下」第三十三では、夔が一本足であるかどうかについての議論が行われている。このことを問われた孔子は「夔は一本足ではない。夔は性格が悪く人々は何も喜ばなかったが、誰からも害されることはなかった。なぜなら正直だったからである。この一つで足りる、だから一足というのである」。または「夔は何の才能もなかったが、音楽の才能だけは突出していた。そのため帝が『夔は一で足りる』と言った」と答えたという。

山梨岡神社のキ神像と日本の夔

山梨岡神社の夔(き)ノ神(2011年4月4日撮影)
山梨岡神社

山梨県笛吹市春日居町鎮目に鎮座する山梨岡神社には、一本脚の神像が伝わっており、「山海経」に登場する夔(キ)の像として信仰を受けている。10年に一度(現在では7年に一度)4月4日に開帳され、雷除け・魔除けの神として信仰されている[1]

キ神像に関する記録は、荻生徂徠(おぎゅう そらい)の『峡中紀行』が初出とされる。甲府藩主・柳沢吉保の家臣である荻生徂徠は宝永3年(1706年)に吉保の命により甲斐を遊歴し、山梨岡神社にも足を運んでいる。この時、徂徠が山梨岡神社に伝来していた木像を「キ」に比定し、以来キ神としての信仰が広まったと考えられている。キ神の来由を記した中村和泉守『鎮目村山梨岡神社キ神来由記』(慶応2年(1866年)、山梨県立博物館所蔵)によれば、江戸後期にはキ神像に関して、天正年間に織田信長軍が山梨岡神社に乱入した際に疫病によって祟ったというような霊験譚が成立している。キ神信仰は江戸後期の社会不穏から生じた妖怪ブームにも乗じて広まったと考えられており、キ神の神札が大量に流通し、江戸城大奥へも献上されている。

明治初期には山中共古『甲斐の落葉』において紹介され、キ神像は欠損した狛犬の像が「山海経」の「キ」と結びつけられたものであると考えられている。

また、山梨県では山の神に対する信仰や雨乞い習俗、雷信仰などの山に関する信仰、神体が一本脚であるという伝承がある道祖神信仰が広く存在し、キ神信仰が受け入れられる背景にもなっていたと考えられている。

このほか、古事記』に出てくる一本足(という読みもある)の神久延毘古の「クエ」という音は、夔の古代中国での発音kueiと似ており、関連がある可能性がある(加藤徹『怪力乱神』中央公論新社 96頁)。また水木しげるは、日本の一本足の妖怪一本だたら」「山爺(やまちち)」と夔の類似性を指摘している(平凡社ライブラリー山海経』解説「日本に渡った精霊たち」)。

キ (中国神話) - Wikipedia

山梨岡神社(やまなしおかじんじゃ)は、山梨県笛吹市春日居町鎮目(しずめ)にある神社である。式内社の「山梨岡神社」に比定されている旧郷社[1]

甲府盆地北縁、笛吹川支流の平等川右岸に位置し、社地は大蔵経寺山の東南麓、大蔵経寺山山頂から東に張り出した尾根筋の御室山(みむろやま)の東麓に立地し、東面して鎮座する。

夔ノ神

 
夔(き)ノ神の夔神真影。享和二年春正月の記述が見られる。(2011年4月4日撮影)
 
山海経より「夔(き)」

山梨岡神社の本殿前には「夔(き)ノ神」と呼ばれる神像が祀られている。笛吹市指定文化財(彫刻)。慶応2年『夔神(きのかみ)来由記』(山梨県立博物館所蔵)に拠れば、神像の年代や来歴は不明であるが、記録資料の年代から宝永3年(1706年)以前に想定される(後述)。

飛騨の匠の作と伝え[6]、高さ66センチメートル程度。中国古代の地理書『山海経』に登場する「」と呼ばれるを持つ独足の奇獣像で、魔除け・雷避けとしての信仰を受けている。普段拝することはできないが、古くは10年に一度、現在では7年に一度の例祭日に開扉が行われている[13]

文献資料においては宝永3年(1706年)の荻生徂徠(おぎゅう そらい)『峡中紀行』において見られる。荻生徂徠甲府藩主・柳沢吉保家臣の儒学者で、吉保の命により甲州を遊歴し、山梨岡神社を訪れた時点では、神主も神像の由来を知らなかったという。また明治19年(1886年)には甲府に滞在した牧師・民俗研究者である山中共古『甲斐の落葉』においても言及され、共古はもとは狛犬であった像が夔神と結びつき、雷避けとしての信仰を集めたものと推測している。

『来由記』に拠れば寛政年間(18世紀末)には幕府勘定方・安田定一郎が川検分に際して当神社を詣で、享和2年(1802年)には徳川将軍家から夔神真影を差し出すことが命じられている。この際には数百枚の夔神真影が写され、大奥御三家旗本らに差し出された。また、江戸後期には災害や飢饉などの社会不穏から妖怪に対する関心が高まり、一般大衆に及ぶ夔神信仰が興隆したという。また、由緒書も流布し霊験譚も広まり、武田家滅亡に際して織田軍勢に厄災をもたらした逸話なども広まっている。

夔神信仰の最盛期は真影版木の摩耗状態から上記享和頃と推定されており、近代には大正期の掛軸が見られ、現在でも神札が配られている。

山梨岡神社は山の神や水・雨の神、雷の神など自然神を祀る神社であるが、夔神信仰が広まった背景には自然に対する民間信仰の存在が指摘されている。山梨県では山の神に対する信仰が広く存在し、雨乞い習俗、雷信仰も見られる。また、山梨県で一般的な道祖神信仰においても、道切り行事として大草鞋を飾る風習のあることからも、山の神としては一本脚の姿が一般的に観念されやすいものであったと考えられている。

山梨岡神社 - Wikipedia

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図版「尾張国絵図」徳川美術館

名古屋市:今月のトップニュース(平成25年2月号)(市政情報)

久延毘古

 
 

久延毘古(くえびこ)は、日本神話に登場する

概要

大国主の国づくりの説話において登場する。『古事記』によると、大国主の元に海の向こうから小さな神がやって来たが、名を尋ねても答えず、誰もこの神の名を知らなかった。するとヒキガエル多邇具久が「久延毘古なら、きっと知っているだろう」と言うので、久延毘古を呼び尋ねると「その神は神産巣日神の子の少彦名神である」と答えた。

 
久延彦神社

さらに古事記では「久延毘古とは"山田のそほど"のことである」と説明されている。「山田のそほど」とはかかしの古名であり、久延毘古はかかしを神格化したもの、すなわち田の神農業の神、土地の神である。かかしはその形から神の依代とされ、これが山の神の信仰と結びつき、収獲祭や小正月に「かかし上げ」の祭をする地方もある。また、かかしは田の中に立って一日中世の中を見ていることから、天下のことは何でも知っているとされるようになった。

神名の「クエビコ」は「崩え彦」、体が崩れた男の意で、雨風にさらされて朽ち果てたかかしを表現したものである。また、「杖彦」が転じたものとも取れ、イザナギが黄泉から帰ってきた後の禊で杖を投げ出した時に生まれた船戸神(ふなとのかみ、岐神道祖神)との関連も考えられる。

田の神、また、学業・知恵の神として信仰されており、久氐比古神社(石川県鹿島郡中能登町)や大神神社奈良県桜井市末社・久延彦神社などで祀られている。

久延毘古 - Wikipedia

キ (メソポタミア神話)

シュメール語: 𒆠翻字: KI、音声転写: Ki)は、地・死後の世界を司るシュメール神話女神であり、天を司る神アンの配偶者である。シュメール神話によれば、キとアンは原初の海ナンム女神より生まれた兄妹神であり、後期バビロニア神話によれば、天を司る神アンシャル(アンの前世代にあたる天を司る神)とキシャル(キの前世代にあたる地を司る神)の子孫とされる。

キは配偶者アンの子として、神々の会合アヌンナキのメンバーを産んだ。なかでも空の神エンリル(後に、アヌンナキの会合の長の地位をアンより奪う)の力が最も際立っていた。エンリルが生まれる以前には、天と地は分かれていなかったが、エンリルによって両者が分かたれたとされる。アンは天に追われ、キはエンリルとともに地を受け継いだ。

キは神と見なし得るかについては、疑問を投げかける向きもある。キに対する信仰が存在していた証拠はなく、シュメールの創世記文書にいくつか名が刻まれているのみであることが主な理由である。キは後にバビロニアアッカドの時代においては女神アントゥへと発展する。女神アントゥは、神アヌ(シュメール神話の神アン)の妻である。サミュエル・ノアクレーマー(Samuel Noah Kramer)は、キをシュメール時代の母なる神ニンフルサグと同一視している。

キ (メソポタミア神話) - Wikipedia

き キ 7 G ζ Ki 11-9

Question (╹ェ╹;)ヾ