ベツレヘム
ベツレヘム
بيت لحم
ベツレヘム市街
市章 座標 : 北緯31度42分11秒 東経35度11分44秒 行政 国 パレスチナ 地区 ヨルダン川西岸地区 県 ベツレヘム県 市 ベツレヘム 市長 ヴェラ・バブーン(en)[1] 人口 人口 (2016年推計現在) 市域 31,799人 公式ウェブサイト : www.bethlehem-city.org ベツレヘム(アラビア語: بَيْت لَحْم (Bayt Laḥm バイト・ラハム(標準語)、ベート・レヘム(口語)、「肉の家」の意)、ヘブライ語: בֵּית לֶחֶם (Bēth Leḥem ベース・レヘム、現代音 Beyt Leḥem ベイト・レヘム、「パンの家」の意))は、パレスチナのヨルダン川西岸地区南部のベツレヘム県の県都。 2016年の推計人口は3万1799人。 経済は主に観光で成り立っている[2][3]。
ヘブライ語聖書ではダビデの町とされ、新約聖書ではイエス・キリストの生誕地とされている。世界最古のキリスト教共同体が存在したが移住のため縮小していった。529年にサマリア人によって奪われたが東ローマ帝国のユスティニアヌス1世が再建した。637年、イスラム教の正統カリフ、ウマル・イブン・ハッターブによって征服された。1099年、十字軍はベツレヘムを陥落させた後、要塞化しギリシャ正教の神父からカトリックの神父に換えた。サラディンに街が落とされるとカトリックの神父は追い出された。1250年に始まるマムルーク朝により壁が破壊されたが、オスマン帝国の時代に再建された[4]。
第1次世界大戦中にイギリスがオスマン帝国からその支配権をもぎ取ると、それは1947年のパレスチナ分割決議につながっていった。1948年第一次中東戦争が始まりヨルダンが併合した。1967年の第三次中東戦争ではイスラエルに占領された。1995年以降、ベツレヘムはパレスチナ自治政府が治めている[4]。
ベツレヘムではムスリムが多数派だが、パレスチナにおける最大級のキリスト教コミュニティーも存在する。ベツレヘムの主要産業は観光で、クリスマスのピーク時には降誕教会への巡礼者が大勢押し寄せる。ベツレヘムはおよそ30件のホテルと300軒の手工芸品工房が存在する[5]。ユダヤ教の重要な聖地、ラケル廟はベツレヘムの北部に位置する。ベツレヘムと同様に宗教的に重要な都市であるエルサレムとは10kmほどしか離れていないが、現在はイスラエルが建設した壁によって隔てられている。
歴史
カナン人の時代
アマルナ文書(紀元前1400年ごろ)に初めて登場し、エルサレムの王が彼の支配者であるエジプトの王に、ハビル(もしくはアピル)の暴動から Bit-Lahmi を取り戻すのに助けを求めている[6]。この名称は現代のものと似ており、ベツレヘムがカナン人の集落だったことを示すと考えられている[7]。
ラフムはアッカドの神話に出る豊穣の神で、カナン人にラハムとして崇拝されていた。紀元前3,000年ごろ彼らは、現在「聖誕の丘」 (the Hill of the Nativity)[訳語疑問点] として知られている丘の上に神を崇拝する神殿を建てた。町はラハムの家を意味する Beit Lachama として知られるようになった[8]。ウィリアム・オルブライトは、発音が3,500年前からほぼ変わらずに残っているが意味は異なっていると記した。カナン人の言葉では「神ラハムの神殿」、ヘブライ語とアラム語では「パンの家」、アラビア語では「肉の家」である。
ラフム
ラフム(またはラーム(Lahmu))は、バビロニア神話に登場する神で、アプスーとティアマトから最初に生まれた。姉妹のラハムとの間に、アンシャールとキシャールをもうけた。
ラハムはある時は大蛇として、またある時は赤い帯と6つの巻き髪を持つ男性として描かれる。常にラフムとともに描かれており、海の沈泥(シルト)を表現すると考えられている。シュメール期において、ラフムは「泥」の意であり、都市エリドゥにおいて神エンキを祀るアプスー寺院の門番に与えられる称号を指すこともあった。象徴的な意味においては、ペルシャ湾口における淡水(アプスー)と海水(ティアマト)が混ざり合う部分にあるシルト(泥)質の島をさすこともある。
また、イエス・キリスト生誕の地として有名な「ベツレヘム」の由来は、一般的にはヘブライ語で「パンの家」(House of the Bread)とされているが、カナン語のラフムが一部参照されているとする説もある。
アンシャル
キシャル
伏羲と女媧
ラフムとラハム
アダムとハヴァ
赤い泥とさざれ石
🐰🐲🐍ヾ(^-^o(╹◡╹(o^-^)ノ