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Q地図 blog “宇宙は親父ギャグで出来ているかもw”

オカルト・スピリチュアル・都市伝説 を楽しんだりしますヾ(╹◡╹o )ノ

DaKuTEN

濁点

濁点(だくてん)あるいは濁音符(だくおんぷ)とは、日本語において、濁音を表すために仮名の右上に付される記号である。その字形から「てんてん」や「ちょんちょん」と呼ぶこともある。

濁点は現代仮名遣いではほとんどの場合濁音に付されるが、それ以前の仮名遣いでは必ずしも付されない。例えば、法令に濁点が付されるようになったのは1927年(昭和2年)からであり、1945年(昭和20年)の終戦の詔書でも濁点は用いられていない

かつては「゛」のほかに点が3つ、4つのものや、丸を2つ書く記号も使われており、書く人や地方によってさまざまであったが、戦国時代から江戸時代にかけて全国的に点が2つの濁点に統一された。例えば仙台市博物館が所蔵する伊達政宗文書の解析によると、1592年以前の文書では点が3つの濁点1593年の文書では点が3つのものと点が2つのものが混在1594年以降の文書では点が2つの濁点が使用されていることが解っており、豊臣秀吉による天下統一がきっかけで濁点も統一されたと考えられている。ちなみに伊達政宗右筆を使わず直筆の文書を書くことを好んだため多くの直筆文書が残っており、一人の人物が点が3つの濁点から2つの濁点に改めたことが確認できる非常に珍しい人物として知られる

濁点は、文字のアクセントを表す声点から発展したものと考えられている。

通常の仮名以外に、繰り返し記号の「ゝ」、「ヽ」、「〱」に濁点をつけて「ゞ」、「ヾ」、「〲」とし、前の音を濁音化する使用法もある。

濁点 - Wikipedia

独眼竜は伊達じゃない!!!! ヾ(╹︿╹o)ノ

(いや 伊達だってばよ....(╹ェ╹;)

 

サイクロイド

サイクロイド

サイクロイド (cycloid) とは、がある規則にしたがって回転するときの円上の定点が描く軌跡として得られる平面曲線の総称である。一般にサイクロイドといえば定直線上を回転するものを指すことが多い。

Cycloid animated.gif

サイクロイド

サイクロイド (rm = 1, πθ ≤ 2π)

定直線に沿って円が滑らずに回転するときの円周上の定点の軌跡をサイクロイドという(→生成アニメーション)。擺線(はいせん)とも呼ばれる。サイクロイドトロコイドの一種と見なすことができる。

サイクロイド

サイクロイド
(rc = 1, rm = 1/3(マゼンタ), 1/2(黄), 1(緑), 2(赤), 3(青))

定円に外接しながら円が滑らずに回転するときの円周上の定点の軌跡をサイクロイド(がい-)という(→生成アニメーション)。エピサイクロイド (epicycloid)、外擺線(がいはいせん)とも呼ばれる。外サイクロイド外トロコイドの一種と見なすことができる。

 

ファイル:Epicycloid(5,2) animated.gif

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/2/20/Epicycloid%285%2C2%29_animated.gif

サイクロイド

サイクロイド
(rc = 1, rm = 1/2(黄), 1/3(緑), 1/4(赤), 1/5(青))

定円に内接しながら円が滑らずに回転するときの円周上の定点の軌跡をサイクロイド(ない-)という(→生成アニメーション)。ハイポサイクロイド (hypocycloid)、内擺線(ないはいせん)とも呼ばれる。内サイクロイド内トロコイドの一種と見なすことができる。

 

ファイル:Hypocycloid(5,2) animated.gif

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/f/fa/Hypocycloid%285%2C2%29_animated.gif

サイクロイド - Wikipedia

サイクロイド サイクロイドABcー ヤXYzー ♪

ヾ(╹◡╹o)(o^◡^o)ノ

 

キ (中国神話)

(き)は、中国神話における神、動物、人物、または妖怪のこと。夔牛きぎゅうともいう。古い伝承によれば一本足であり、音楽と深い関係にあるとされた。夔についての伝承は時代や地域によって大きく異なっている。

中国の夔

起源

元は代に信仰された神で、夔龍とも呼ばれる龍神の一種であった。一本足の龍の姿で表され、その姿はと共に銅鏡等に刻まれた。鳳が熱帯モンスーンを神格化した降雨の神であった様に、夔龍もまた降雨に関わる自然神だったと考えられており、後述の『山海経』にて風雨を招くとされるのもその名残と思われる。後に一本足のの姿で表されたのも牛が請雨のために龍神に捧げられた犠牲獣であったためとされている。一本足は天から地上へ落ちる一本のを表すともいわれる。

神話のなかの夔

山海経より「夔」

山海経』第十四「大荒東経」によれば、夔は東海の流波山頂上にいる動物である。その姿は牛のようだが角はなく、脚は一つしかない。体色は蒼である。水に出入りすると必ず風雨をともない、光は日月のように強く、声は雷のようである。黄帝は夔を捕らえてその皮から太鼓をつくった。この太鼓を雷獣の骨で叩くと、その音は五百里にまで響き渡ったという。『繹史』巻五に引用されている『黄帝内伝』によれば、この太鼓は黄帝が蚩尤と戦ったときに使われたものだという。また『山海経広注』に引用されている『広成子伝』によると蚩尤が暴れるのをとめたのは夔ではなく同音の軌牛であったという。

夔は『説文解字』第五篇下における解説では「竜のような姿をしていて角がある」とされている。また『法苑珠林』に引用されている『白沢図』によれば「鼓のようで、一本足である」という。

妖怪の夔

国語』「魯語」に三国時代韋昭が付した注によると、夔は一本足であり、人はこれを山繰と呼び、人の顔、猿の体で人語を解する動物であるという。『史記』「孔子世家」では夔は木石の怪であるとされ、魍魎と同一視されている。同様の記述が『抱朴子』「登渉篇」にもある。

人間としての夔

書経』「舜典」では、夔は帝の配下である人間で、帝によって音楽を司るように命じられた。夔は「私がを高く低く打てば百獣がそれに従って舞うことでしょう」と言ったという。

韓非子』「外儲説左下」第三十三では、夔が一本足であるかどうかについての議論が行われている。このことを問われた孔子は「夔は一本足ではない。夔は性格が悪く人々は何も喜ばなかったが、誰からも害されることはなかった。なぜなら正直だったからである。この一つで足りる、だから一足というのである」。または「夔は何の才能もなかったが、音楽の才能だけは突出していた。そのため帝が『夔は一で足りる』と言った」と答えたという。

山梨岡神社のキ神像と日本の夔

山梨岡神社の夔(き)ノ神(2011年4月4日撮影)
山梨岡神社

山梨県笛吹市春日居町鎮目に鎮座する山梨岡神社には、一本脚の神像が伝わっており、「山海経」に登場する夔(キ)の像として信仰を受けている。10年に一度(現在では7年に一度)4月4日に開帳され、雷除け・魔除けの神として信仰されている[1]

キ神像に関する記録は、荻生徂徠(おぎゅう そらい)の『峡中紀行』が初出とされる。甲府藩主・柳沢吉保の家臣である荻生徂徠は宝永3年(1706年)に吉保の命により甲斐を遊歴し、山梨岡神社にも足を運んでいる。この時、徂徠が山梨岡神社に伝来していた木像を「キ」に比定し、以来キ神としての信仰が広まったと考えられている。キ神の来由を記した中村和泉守『鎮目村山梨岡神社キ神来由記』(慶応2年(1866年)、山梨県立博物館所蔵)によれば、江戸後期にはキ神像に関して、天正年間に織田信長軍が山梨岡神社に乱入した際に疫病によって祟ったというような霊験譚が成立している。キ神信仰は江戸後期の社会不穏から生じた妖怪ブームにも乗じて広まったと考えられており、キ神の神札が大量に流通し、江戸城大奥へも献上されている。

明治初期には山中共古『甲斐の落葉』において紹介され、キ神像は欠損した狛犬の像が「山海経」の「キ」と結びつけられたものであると考えられている。

また、山梨県では山の神に対する信仰や雨乞い習俗、雷信仰などの山に関する信仰、神体が一本脚であるという伝承がある道祖神信仰が広く存在し、キ神信仰が受け入れられる背景にもなっていたと考えられている。

このほか、古事記』に出てくる一本足(という読みもある)の神久延毘古の「クエ」という音は、夔の古代中国での発音kueiと似ており、関連がある可能性がある(加藤徹『怪力乱神』中央公論新社 96頁)。また水木しげるは、日本の一本足の妖怪一本だたら」「山爺(やまちち)」と夔の類似性を指摘している(平凡社ライブラリー山海経』解説「日本に渡った精霊たち」)。

キ (中国神話) - Wikipedia

山梨岡神社(やまなしおかじんじゃ)は、山梨県笛吹市春日居町鎮目(しずめ)にある神社である。式内社の「山梨岡神社」に比定されている旧郷社[1]

甲府盆地北縁、笛吹川支流の平等川右岸に位置し、社地は大蔵経寺山の東南麓、大蔵経寺山山頂から東に張り出した尾根筋の御室山(みむろやま)の東麓に立地し、東面して鎮座する。

夔ノ神

 
夔(き)ノ神の夔神真影。享和二年春正月の記述が見られる。(2011年4月4日撮影)
 
山海経より「夔(き)」

山梨岡神社の本殿前には「夔(き)ノ神」と呼ばれる神像が祀られている。笛吹市指定文化財(彫刻)。慶応2年『夔神(きのかみ)来由記』(山梨県立博物館所蔵)に拠れば、神像の年代や来歴は不明であるが、記録資料の年代から宝永3年(1706年)以前に想定される(後述)。

飛騨の匠の作と伝え[6]、高さ66センチメートル程度。中国古代の地理書『山海経』に登場する「」と呼ばれるを持つ独足の奇獣像で、魔除け・雷避けとしての信仰を受けている。普段拝することはできないが、古くは10年に一度、現在では7年に一度の例祭日に開扉が行われている[13]

文献資料においては宝永3年(1706年)の荻生徂徠(おぎゅう そらい)『峡中紀行』において見られる。荻生徂徠甲府藩主・柳沢吉保家臣の儒学者で、吉保の命により甲州を遊歴し、山梨岡神社を訪れた時点では、神主も神像の由来を知らなかったという。また明治19年(1886年)には甲府に滞在した牧師・民俗研究者である山中共古『甲斐の落葉』においても言及され、共古はもとは狛犬であった像が夔神と結びつき、雷避けとしての信仰を集めたものと推測している。

『来由記』に拠れば寛政年間(18世紀末)には幕府勘定方・安田定一郎が川検分に際して当神社を詣で、享和2年(1802年)には徳川将軍家から夔神真影を差し出すことが命じられている。この際には数百枚の夔神真影が写され、大奥御三家旗本らに差し出された。また、江戸後期には災害や飢饉などの社会不穏から妖怪に対する関心が高まり、一般大衆に及ぶ夔神信仰が興隆したという。また、由緒書も流布し霊験譚も広まり、武田家滅亡に際して織田軍勢に厄災をもたらした逸話なども広まっている。

夔神信仰の最盛期は真影版木の摩耗状態から上記享和頃と推定されており、近代には大正期の掛軸が見られ、現在でも神札が配られている。

山梨岡神社は山の神や水・雨の神、雷の神など自然神を祀る神社であるが、夔神信仰が広まった背景には自然に対する民間信仰の存在が指摘されている。山梨県では山の神に対する信仰が広く存在し、雨乞い習俗、雷信仰も見られる。また、山梨県で一般的な道祖神信仰においても、道切り行事として大草鞋を飾る風習のあることからも、山の神としては一本脚の姿が一般的に観念されやすいものであったと考えられている。

山梨岡神社 - Wikipedia

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図版「尾張国絵図」徳川美術館

名古屋市:今月のトップニュース(平成25年2月号)(市政情報)

久延毘古

 
 

久延毘古(くえびこ)は、日本神話に登場する

概要

大国主の国づくりの説話において登場する。『古事記』によると、大国主の元に海の向こうから小さな神がやって来たが、名を尋ねても答えず、誰もこの神の名を知らなかった。するとヒキガエル多邇具久が「久延毘古なら、きっと知っているだろう」と言うので、久延毘古を呼び尋ねると「その神は神産巣日神の子の少彦名神である」と答えた。

 
久延彦神社

さらに古事記では「久延毘古とは"山田のそほど"のことである」と説明されている。「山田のそほど」とはかかしの古名であり、久延毘古はかかしを神格化したもの、すなわち田の神農業の神、土地の神である。かかしはその形から神の依代とされ、これが山の神の信仰と結びつき、収獲祭や小正月に「かかし上げ」の祭をする地方もある。また、かかしは田の中に立って一日中世の中を見ていることから、天下のことは何でも知っているとされるようになった。

神名の「クエビコ」は「崩え彦」、体が崩れた男の意で、雨風にさらされて朽ち果てたかかしを表現したものである。また、「杖彦」が転じたものとも取れ、イザナギが黄泉から帰ってきた後の禊で杖を投げ出した時に生まれた船戸神(ふなとのかみ、岐神道祖神)との関連も考えられる。

田の神、また、学業・知恵の神として信仰されており、久氐比古神社(石川県鹿島郡中能登町)や大神神社奈良県桜井市末社・久延彦神社などで祀られている。

久延毘古 - Wikipedia

キ (メソポタミア神話)

シュメール語: 𒆠翻字: KI、音声転写: Ki)は、地・死後の世界を司るシュメール神話女神であり、天を司る神アンの配偶者である。シュメール神話によれば、キとアンは原初の海ナンム女神より生まれた兄妹神であり、後期バビロニア神話によれば、天を司る神アンシャル(アンの前世代にあたる天を司る神)とキシャル(キの前世代にあたる地を司る神)の子孫とされる。

キは配偶者アンの子として、神々の会合アヌンナキのメンバーを産んだ。なかでも空の神エンリル(後に、アヌンナキの会合の長の地位をアンより奪う)の力が最も際立っていた。エンリルが生まれる以前には、天と地は分かれていなかったが、エンリルによって両者が分かたれたとされる。アンは天に追われ、キはエンリルとともに地を受け継いだ。

キは神と見なし得るかについては、疑問を投げかける向きもある。キに対する信仰が存在していた証拠はなく、シュメールの創世記文書にいくつか名が刻まれているのみであることが主な理由である。キは後にバビロニアアッカドの時代においては女神アントゥへと発展する。女神アントゥは、神アヌ(シュメール神話の神アン)の妻である。サミュエル・ノアクレーマー(Samuel Noah Kramer)は、キをシュメール時代の母なる神ニンフルサグと同一視している。

キ (メソポタミア神話) - Wikipedia

き キ 7 G ζ Ki 11-9

Question (╹ェ╹;)ヾ

 

BiG BanG

ビッグバン: Big Bang)とは、

  • ビッグバン理論(ビッグバン仮説)、つまり「この宇宙には始まりがあって、爆発のように膨張して現在のようになった」とする説
  • 同説において想定されている、宇宙の最初期の超高温度・超高密度の状態のことである。

概要

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ビッグバン理論では、宇宙は極端な高温高密度の状態で生まれた、とし(下)、その後に空間自体が時間の経過とともに膨張し、銀河はそれに乗って互いに離れていった、としている(中、上)。

「ビッグバン」という語は、狭義では宇宙の(ハッブルの法則に従う)膨張が始まった時点を指す。その時刻は今から138億年[1][2]1.38 × 1010年)前と計算されている。より一般的な意味では、宇宙の起源や宇宙の膨張を説明し、またジョージ・ガモフの「α-β-γ理論」から予測される宇宙初期の元素合成によって現在の宇宙の物質組成が生まれたとする、現代的な宇宙論パラダイムも指しうる。

この理論に「ビッグバン (Big Bang)」という名をつけることになったのは、皮肉にも、「宇宙に始まりがあった」という考えを非常に嫌悪していたフレッド・ホイルであり、あるラジオ番組において、ジョルジュ・ルメートルのモデルを this 'big bang' idea(この大ボラ と愚弄するように呼んだのが始まりである[3]とされている。科学記者ジョン・ホーガンの取材によるとホイルは卑下する意味は微塵も無く、何か咄嗟に生き生きとした表現は無いものかと思いついたのが「ビッグ・バン」だったと気まずく述べており「命名者としてパテントを取得しておくべきだったよ」と悔やんでいる旨を明かしている。その名の通り爆発的に用語が一般認知、定着するが、それ以前の天文学者らの間ではフリードマン宇宙論として語られていた[4]

ビッグバン理論(ビッグバン仮説)に基づいたビッグバン・モデルでは、宇宙は時間空間の区別がつかない一種の「無」の状態から忽然と誕生し[要出典]、爆発的に膨張してきた、とされる。近年の観測値を根拠にした推定により、ビッグバンは約138億年前に起きたと推定されるようになった。

遠方の銀河ハッブルの法則に従って遠ざかっているという観測事実を、一般相対性理論を適用して解釈すれば、宇宙が膨張しているという結論が得られる。宇宙膨張を過去へと外挿すれば、宇宙の初期には全ての物質エネルギーが一カ所に集まる高温度・高密度状態にあったことになる。この初期状態、またはこの状態からの爆発的膨張をビッグバンという。

この高温・高密度の状態よりさらに以前については、一般相対性理論によれば重力的特異点になるが、物理学者たちの間でこの時点の宇宙に何が起きたかについては広く合意されているモデルはない。

20世紀前半でも、天文学者も含めて人々は宇宙は不変で定常的だと考えていた。ハッブルの観測によって得られたデータが登場しても科学者たちも真剣にそれを扱おうともせず、ごくわずかな人数のアウトサイダー的な天文学者・科学者がビッグバン仮説を発展させたものの、無視されたり軽視されたりしてなかなか受け入れられなかった。

ビッグバン理論から導かれる帰結の1つとして、今日の宇宙の状態は過去あるいは未来の宇宙とは異なる、というものがある。このモデルに基づいて、1948年ジョージ・ガモフ宇宙マイクロ波背景放射 (CMB) が存在することを主張、その温度を5Kと推定した。CMB は1960年代になって発見され、この事実が、当時最も重要な対立仮説(対立理論)であった定常宇宙論ではなくビッグバン理論を支持する証拠と受け止められ、支持する人が増え多数派になり、「標準理論」を構成するようになった。この説が生まれてから数十年の時を経て、ようやくそうなったのである。(→#歴史

歴史

20世紀初頭では天文学者も含めてほとんどの人々は宇宙は定常的なものだと考えていた。「宇宙には始まりがなければならない」などという考えを口にするような天文学者は皆無だった[5]ハッブルも、柔軟な考えを持っていると評価されているアインシュタインですらも、「宇宙に始まりがあった」などという考えはまるっきり馬鹿げていていると思っていた[5]。科学者たちは膨張宇宙論科学では理解しがたく、宗教上の立場だと見なしていた[5]

ビッグバン理論は、紆余曲折を経て、観測と理論の両面が揃ってようやく徐々に認められるようになってきた歴史がある。

観測的には、多くの渦巻星雲地球から遠ざかっていることが知られていたが、当初これらの観測を行った研究者たちはその宇宙論的な意味に気づかず、これらの星雲が実際に我々の天の川銀河の外にある銀河であるということが分からない状況にいた。

ジョルジュ・ルメートル。「宇宙は原始的原子(primeval atom) の“爆発”から始まった」というモデルを提唱した。

1927年にベルギーの司祭天文学者ジョルジュ・ルメートルが一般相対論のフリードマン・ロバートソン・ウォーカー計量に従う方程式を独自に導き出し、渦巻銀河が後退しているという観測結果に基づいて、「宇宙は原始的原子 (primeval atom) の“爆発”から始まった」というモデルを提唱した。

1929年エドウィン・ハッブルの観測で、彼は銀河が地球に対してあらゆる方向に遠ざかっており、その速度は地球から各銀河までの距離に比例していることを発見した(この事実は現在「ハッブルの法則」と呼ばれている。これが、ルメートルの「原始的原子 (primeval atom) の“爆発”から始まった」とする理論に対して基礎付けを与えることになった。)

この時点でこの問題(ハッブルの観測結果を説明すること)に本気で立ち向かい科学的にとらえようという気になっている科学者は皆無だった[5]

その数少ない例外がロシア出身の天文・核物理学者ジョージ・ガモフであり[5]、ジョルジュ・ルメートルが提唱したビッグバン理論を支持し発展させた。ガモフは、初期の宇宙は全てが圧縮され高密度だったうえに、超高温度だったとし、宇宙の膨張の始まりを、熱核爆弾の火の玉と捉え、創造の材料(陽子中性子電子ガンマ放射線の高密度ガス。これらの材料をガモフは「イーレム」と呼んだ)が爆発の場で連鎖的に起きる核反応によって、現在の宇宙に見られる様々な元素に転移したのだ、と説明した[3]。1940年代、ガモフとその共同研究者たちは、熱核反応によって創世が起きたとする説明の細部を詳細に描く論文をいくつも執筆した。だが、この説明図式がうまくゆかなかった。原子核のなかには非常に不安定なものがあり、再融合する前にバラバラになり、彼が求めていた、元素へと組成する連鎖が途中で途切れてしまうのだった[3]。ガモフたちの研究や論文は無視され軽視されたままになり、研究チームは1940年代末に解散してしまい、チームメンバーでは科学を捨てる者もいた。ガモフも引退することになった。ただ、ガモフは大衆向けに科学宇宙論の本を書いたりし、次世代に影響は与えた[3]

ハッブルの観測結果を説明するもうひとつの方法は、従来通りに「宇宙に始まりなどなく、定常である」とする説を採用することである。フレッド・ホイルは「宇宙に始まりがあった」という考えをとことん嫌い抜いていた[3]。ホイルが1948年に出したモデルは「定常モデル」と呼ばれる。このモデルでは銀河が互いに遠ざかるに従って、あとに残った空間に新しい物質が現れ出て、それが固まることで新たな銀河を形成してゆくとし[6]、これにより宇宙の物質密度が一定に保たれるとした。このモデルでは大まかに言えば、宇宙はいつでも同じように見えることになる[6]。これは「宇宙は永遠無限だから偉大なのだ」と考える科学者たちの心をつかんだ。おまけにホイルの説はビッグバン説よりエレガントだった。物理学者らはエレガント好きなのでそれを好んだ[7]ハッブルまで定常説が自然だと見なした[7]ルメートルの理論にビッグバン (Big Bang) という名前を付けたのはホイルで、1949年BBC のラジオ番組 The Nature of Things の中で彼がルメートルのモデルを "this 'big bang' idea" とからかうように呼んだのが始まりであるとされている[8]。ところでホイルは、定常モデルであってもライバルのビッグバン・モデルと同様に炭素酸素窒素ウランなどの化学元素の起源を説明しなければならない、という問題に気づいた[9]。ホイルは、時間の始まりに一発のビッグバンがあってそれが核反応炉の役割を果たしたとしなくても元素が創生されたと説明がつくことを示したくて、「星ではありとあらゆる核種変換が起こっている」と提唱した[9]。そのため1953年にはカリフォルニア工科大学ケロッグ放射線研究所に赴いて、そこの所長のウィリー・ファウラーの協力で、泡箱を用いて原子核の衝突実験(3個のヘリウムでできる炭素原子核の性質を調べる実験)を成功させた[9]。これにより炭素は星のなかで無尽蔵に作られる性質があることが判った。その後も彼ら2人を含めて数名が元素の歴史に迫り、論文に結実させた[9]。だが、こうした論文は定常モデルに有利に働いたというよりむしろ、ハッブルの観測によって導かれた星の進化に関するアイディア群がより完成度を高めた、と一般には見なされた[9]

《ビッグバン VS 定常宇宙》論争では、ローマカトリックは早い段階で、どちらの陣営を支持するか態度を明らかにしていた。1951年に教皇ピウス12世バチカン宮殿で会議を開き、「ビッグバンカトリックの公式の教義に矛盾しない」との声明を発表した(とは言っても、これは純粋に科学的なことには、あまり関係のないことであった)これらの宇宙論に関する大きな論争が起きるたびに、新聞の読者たちは熱くなった[10]

1953年にハッブルが亡くなり、彼が計画した仕事(宇宙のサイズと運命を推算する仕事。当時、ウィルソン山天文台でなければできない仕事)を引き継がなければならなくなったアラン・サンディジen:Allan Sandage)という弟子がいた[11]。当時20代半ばで、ようやく学位論文を仕上げたばかりだった。彼はルメートルの説を馬鹿げたものとは見なさず、これを「Creation Event (天地創造事件)」と呼んで探究した[5]。 サンディジは、膨張宇宙説を支えているのは1920〜30年代に集められた いかにも頼りない証拠にすぎない、ということを意識しており、結局、どの説が正しいかを決定づけるのは彼がウィルソン山の天文台で少しずつ、だが系統的に日々集めている観測データであることを知っていた[10]

一方、旧ソ連には核兵器関連の仕事をしつつ物理学者として成長し素粒子物理学に関する論文を書いていたヤコブ・ゼルドビッチがいたが、彼は西側の科学者以上にビッグバン説について真剣に考えていて、宇宙を巨大な素粒子物理実験と見なすようになっていた[12]。彼は宇宙の元素存在比の表を読み違えて計算したことにより、《熱いビッグバン》は間違いだと考え、《冷たいビッグバン》を長らく信じた[12]

しかしやがて、宇宙が高温高密度の状態から進化したというアイデアを支持する観測的な証拠が挙がってきた。1965年宇宙マイクロ波背景放射の発見以降は、ビッグバン理論が宇宙の起源と進化を説明する最も良い理論であると考える人が多数派になった。

現在の科学者による宇宙論の研究はそのほとんど全てが基本的なビッグバン理論の拡張や改良を含むものである。現在行なわれているほとんどの宇宙論の研究には、ビッグバンの文脈で銀河がどのように作られたかを理解することや、ビッグバンの時点で何が起きたかを明らかにすること、観測結果を基本的な理論と整合させることなどが含まれている。

ビッグバン宇宙論の分野では1990年代の終わりから21世紀初めにかけて、望遠鏡技術の大発展と COBEハッブル宇宙望遠鏡WMAP といった衛星から得られた膨大な量の観測データとが相まって、非常に大きな進展が見られた。これらのデータによって、宇宙論研究者はビッグバン理論のパラメータを今までにない高い精度で計算することが可能になり、これによって宇宙が加速膨張しているらしいという予想外の発見がもたらされた。(ダークエネルギーを参照のこと。)

ビッグバン - Wikipedia

BiG BαωG ヾ(╹Д╹o)ノ

芸術は爆発だっ!!!!」岡本 太郎(おかもと たろう、1911明治44年)226 - 1996平成8年)17

岡本太郎 - Wikipedia

 

学問のすゝめ

学問のすゝめ學問ノスヽメ、がくもんのすすめ)は、福沢諭吉の著書のひとつ。初編から17編までシリーズとして発行された。初編のみ小幡篤次郎共著。

概要

1872年(明治5年2月)初編出版。以降、1876年(明治9年11月25日)十七編出版を以って一応の完成をみた。その後1880年(明治13年)に「合本學問之勸序」という前書きを加え、一冊の本に合本された。

明治維新直後の日本国民は、数百年変わらず続いた封建社会と儒教思想しか知らなかった。本書は国民に向かい、欧米の近代的政治思想、民主主義を構成する理念、市民国家の概念を平易な比喩を多用して説明し、儒教思想を否定して、日本国民を封建支配下の無知蒙昧な民衆から、近代民主主義国家主権者となるべき、自覚ある市民に意識改革することを意図する。また数章を割いて当時の知識人に語りかけ、日本の独立維持と明治国家の発展は知識人の双肩にかかっていることを説き、自覚を促し、福澤自身がその先頭に立つ決意を表明する。後半の数章で、生活上の心構え等の持論を述べて終わる。

数年かけて順次刊行された冊子を一冊にまとめたものであり、ある章は福澤の私的な知人への書簡であり、または会合での挨拶を筆記したものである。

文体は平易ながら、明治維新の動乱を経て新しく開けた新時代への希望と、国家の独立と発展を担う責任を自覚する明治初期の知識人の気概に満ち、当時の日本国民に広く受容された。おそらく近代の啓発書で最も著名で、最も売れた書籍である。最終的には300万部以上売れたとされ[1]、当時の日本の人口が3000万人程であったから実に全国民の10人に1人が買った計算になる。

内容

初編
自由独立平等の、それまでの日本人が知らなかった価値観が新時代の社会を支配することを宣言する。新時代における身分は生まれではなく、学問を通じた個人の見識によることを述べ、権威への服従を中心的価値観とする封建社会の民衆像を否定し、近代国家の市民への意識転換を促す。
二編 人は同等なること
前編を詳説して、実学を推奨し、また平等とは権利の平等であるとし、日本には言葉さえ無かった権利平等とは何かを説明する。さらに日本が封建制から、市民権を基礎とし、法治主義に基づく近代市民国家へ転換したことを述べる。
三編 国は同等なること / 一身独立して一国独立すること
本編で福沢は、当時の帝国主義全盛の中、諸国家の権利の平等を主張する。初編をさらに詳説し、国民がもはや封建支配の対象ではなくなったことを語り、権威から独立した自由市民としての自覚を促す。また市民の義務について述べ、各市民が国家に責任を負って国家の独立があると説く。
四編 学者の職分を論ず
日本の独立維持の条件に学術、商業、法律の発展をあげ、政府主導の振興策が進展しないのは民間の力不足が原因として、民間を主導する責任は知識人層にあるとする。そして当時の知識人の公職志向を非とし、福沢自身が在野で知識人層を先導する決意を宣言する。
五編 明治七年一月一日の詞 
慶応義塾の新年会の挨拶を文章化したもの。福沢は前編と同じく、民間を先導すべき知識人の責任を集まった仲間に語り、一同の奮起を促す。
六編 国法の貴きを論ず
本編で福沢は、政府を社会契約説に基づく市民政府と定義し、法治主義の重要さを説明する。法治を破った私刑の悪例として赤穂浪士の仇討ちをあげ、後に議論を呼ぶ。赤穂不義士論を参照。)
七編  国民の職分を論ず
前編の社会契約説と法治主義をさらに解説する。また政府が圧政を行なった場合の対応として武力による抵抗権を否定し、非暴力主義を提唱する。福沢が本編で封建的主従関係に基づく忠義の価値観を否定し、古来の忠臣とは主人の一両の金を落として首を吊る下男と同じとしたため、後のいわゆる楠公権助論が発生する。(楠公権助論を参照。)
八編  わが心をもって他人の身を制すべからず
江戸期の社会秩序の基軸をなした主従、男女、親子の儒教的上下関係を不合理な旧思想として否定し、男女同権論を展開する。
九編  学問の趣旨を二様に記して中津の旧友に贈る文
本書簡は、学問には個人的・社会的の二種類の目的があることを書く。個人的な目的は生活の独立だが、社会的な目的は、業績によって社会の進歩に貢献することであり、それは人間の義務であると説く。
十編 前編のつづき、中津の旧友に贈る
前編に続けて、学究の徒の心構えを説く。当時の日本の後進性を解決する責務が知識人にあることを語ったのち、目先の生活のため大局的な学問の目的を放棄することを戒める。
十一編  身分から偽君子を生じるの論
八編の内容の続編である。儒教的秩序を基礎とする国家観の不合理を論証し、弊害を述べて身分制度に基づく封建社会を否定する。
十二編 演説の法を勧めるの説 / 人の品行は高尚ならざるべからざるの論
前半では思想を言葉で語ることの重要性を述べ、それまで日本になかった弁論術の観念を提唱する。後半では自己より優れた相手を比較する基準に置いて、常に向上を心がける必要性を説く。
十三編 怨望の人間に害あるを論ず
人間の不道徳のうちで最大は、怨恨であると断じ、怨恨の生じる原因は、自由な発言や行動を禁じられた鬱屈であるとして、政府も民間ともに、個人の言論と行動の自由を妨げてはならないと語る。
十四編 心事の棚卸し / 世話の字の義
前段で長期的な計画に取り組むには自己の状況を商売の簿記のように客観的に監視し、期末ごとの決算のように定期的に総括することを助言する。後段では、他者への監督は他者への保護と表裏の関係にあり、どちらかが欠けた場合の弊害を説く。
十五編  事物を疑いて取捨を断ずること
西洋文明の進歩は既存の価値観に対する疑問から発生したことを説き、西洋文明そのものすら盲信することを愚として戒める。物事を採用する前に、慎重な検討と取捨選択が必須であることを述べる。
十六編  手近く独立を守ること / 心事と働きと相当すべきの論
前段では独立に物理的と精神的な独立の二種があると説く。物欲や虚飾にもとづいて消費する者は、精神が欲求の奴隷となっていることを主張する。後段では内面の自己評価と、実際の仕事の実力を一致させることを説き、不一致が生じた場合の弊害について述べる。
十七編 人望論
世間的な評価の必要性を説き、実力以下の評価しか得られない悩みに対しアドバイスする。他人からの評価を得るためには、実は見た目の印象がまず重要であること、愛想のいい顔つきや話し方の必要性、そしてそのために研究や努力をしなくてはならないと述べる。また孤立せずに努めて交友範囲を広げることを勧めて、全章を締めくくる。

文章

「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」
慶應大学東館に刻まれているラテン語で書かれた福澤の言

人には上下の別があるとする儒教思想に由来する、それまでの日本人の常識を完全に否定する「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずといへり」という冒頭の一節は著名だが、この「ヘリ」は現代における「云われている」という意味で、この一文のみで完結しているわけではない。しかも、この言葉は福澤諭吉の言葉ではなく、アメリカ合衆国独立宣言からの翻案であるとするのが最も有力な説である[2]

この引用に対応する下の句とも言える一文は、

「されども今廣く此人間世界を見渡すにかしこき人ありおろかなる人あり貧しきもあり冨めるもあり貴人もあり下人もありて其有様雲と坭との相違あるに似たるは何ぞや」

である。つまり、

「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと言われている__人は生まれながら貴賎上下の差別ない。けれども今広くこの人間世界を見渡すと、賢い人愚かな人貧乏な人金持ちの人身分の高い人低い人とある。その違いは何だろう?。それは甚だ明らかだ。賢人愚人との別は学ぶ学ばざるとに由ってできるものなのだ。人は生まれながらにして貴賎上下の別はないけれどただ学問を勤めて物事をよく知るものは貴人となり富人となり、無学なる者は貧人となり下人となるのだ。」

ということである。

以上の言葉は初編からの引用であるが、虚実渦巻く理想と現実の境を学問によって黎明するといった、全体として学問の有無が人生に与える影響を説いている。 彼は攘夷の気分が蔓延していた当時に攘夷を否定し、また、「政治は国民の上で成り立っており、愚かな人の上には厳しい政府ができ、優れた人の上には良い政府ができる。法律も国民の行いによって変わるもので、単に学ぶ事を知らず無知であるのに強訴や一揆などを行ったり、自分に都合の良い事ばかりを言う事は恥知らずではないか。法律で守られた生活を送っていながら、それに感謝をせず自分の欲望を満たすために法律を破る事は辻褄の合わない事だ。」(意訳)等と、大政奉還から約4年半後の世相を考えればかなり先進的な内容だったと言える [3][4]

更に古文や漢文については「よきものではあるがそこまでして勉強するものではない」(意訳)と、意義を否定はしないが、世間で扱われている程の価値があるものではない、と言って儒学者朱子学者が使うような難しい字句のある漢文や古文を学ぶより、まず日常的に利用価値のある、読み書き、計算、基本的な道徳などの「実学」を身につけるべきだと書いている[5]

本書は数章を除いて、小学校の教科書とするため、もしくは高等教育を受けていない当時の一般国民を読者に想定して書かれている(5編)。そのため当時の基準では平易な文章だといえ、難解な政治思想を説明するため比喩が多く使われている。

批判

本書が執筆された明治初期は、明治国家の国家像が模索されている時期であった。福澤は儒教的価値観と完全に決別した市民国家を構想していたが、やがて形成された政府の方針は、天皇への忠義を中核とする天皇制国家であった。忠義を国家の中心価値とする政府の方針が明確になりだした1882年(明治15年)前後から、福澤は政府の方針を儒教的反動として『時事新報』で批判を展開するが、1889年(明治22年)の大日本帝国憲法発布を経て、天皇制国家は確立する。忠義や孝行をはじめ、儒教的な価値観を完全に否定した福澤の思想は時代を先取りしすぎ、明治社会下では福澤自身への批判・攻撃を招いた。

学問のすゝめ - Wikipedia

新たな世界を切り拓くツルギ ヾ(╹ヘ╹o)ノ